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「翻訳後記3」が『中医臨床』2022年3月号に掲載されました

当ブログでも紹介している『翻訳後記3』が東洋学術出版社の『中医臨床』2021年12月号に掲載されました。
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掲載内容はブログに書いたテーマをベースに大幅に改編した内容となっております。

「経脈病候」に関してより興味を持っていただければありがたい限りです。
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『経脈病候の針灸治療』翻訳後記3

翻訳書『経脈病候の針灸治療』後記3
keimyaku-byoukou
翻訳書『経脈病候の針灸治療』後記
2020年に東洋学術出版社から出版された『経脈病候の針灸治療』の翻訳を務めさせていただいた。
出版後、改めて本書を読み返すと、気になる部分や残しておきたい考察内容などがあることに気が付いた。
そういった内容を記録の意味も込めて時々記載していきたい。

十二経見証

本書に引用されている古典原文の中で、個人的に、目下、一番臨床に役立っていると思えるのが、『丹渓心法』に収録されている「十二経見証」。
経脈病候というと最初に挙げられるのはやはり『霊枢』経脈篇にある「是動病」・「所生病」であり、それらももちろん臨床上参考にはしているのだが、十二経見証のほうがより臨床に近い気がするのである。

例えば、「十二経見証」の足陽明胃経見証は以下のような記載となっている。

「悪人與火 聞木音則驚 狂 上登而歌 棄衣而走 顔黒 不能言 脣腫 嘔 呵欠 消谷善飲 頚腫 膺乳気街股伏兎胻外廉足跗皆痛 胸傍過乳痛 口喎 腹大水腫 奔響腹脹 跗内廉腑痛 髀不可転 膕似結 腨似裂 膝臏腫痛 遺溺矢気 善伸数欠 癲疾 湿浸 心欲動則閉戸独処 驚 身前熱身後寒慄」

このうち「髀不可転 膕似結 腨似裂」は『霊枢』経脈篇では膀胱経の所生病にほぼ同様の記載のある病候である。病位から考えても膀胱経の病候とするのは妥当だと考えられる。

しかしながら、私自身、坐骨神経痛や脊柱管狭窄症、あるいはそれらを原因としていると思われる膝痛・下腿痛・足底痛などに対しては膀胱経を用いるよりも胃経を用いた方が効果が高いと感じている。そのため、「髀不可転 膕似結 腨似裂」が胃経の病候として記載されていることに対しては、非常に共感を覚えるのである。

朱丹渓は臨床の人であるという。実際の臨床を通じて得た知見を残してもらえるのは後代の者としてはありがたい限りである。しかも、その内容が『霊枢』経脈篇と比較するうえで近すぎず、遠すぎずな内容であるため、なおさら検討・追試してみたくなるのである。

「翻訳後記」が『中医臨床』2021年12月号に掲載されました

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当ブログでも紹介している『翻訳後記』東洋学術出版社の『中医臨床』2021年12月号に掲載されました。
掲載内容はブログに書いたものをベースに手をいれたものとなっております。
「是動病」って難しそうだと敬遠していた方が、これを読んで少しでも身近に感じてもらえれば嬉しいです。

『経脈病候の針灸治療』翻訳後記 番外編

翻訳書『経脈病候の針灸治療』後記 番外編
keimyaku-byoukou翻訳書『経脈病候の針灸治療』後記
2020年に東洋学術出版社から出版された『経脈病候の針灸治療』の翻訳を務めさせていただいた。
出版後、改めて本書を読み返すと、気になる部分や残しておきたい考察内容などがあることに気が付いた。
そういった内容を記録の意味も込めて時々記載していきたい。



先日、蔵書の整理をしていたら偶然手にした雑誌『中医刊授自学之友』1985年7‐8合刊
2021年12月08日19時33分50秒

の偶然ひらいたページに、『経脈病候の針灸治療』の著者である張吉先生の1985年当時の論文が掲載されていました。

この論文が偶然にも目に留まったのは題名が『黄元御気化昇降学術思想初探』であったからです。
黄元御は清代の医家で、著作『四聖心源』は古典的な中医学を非常にわかりやすく、かつ実践的な角度から書かれており、とてもわかりやすく中医学の角度から人体を考察しているので、私も常々参考にしていた本です。

以前このブログで紹介した『円運動的古典中医学』もこの『四聖心源』をベースにしているようです。

黄元御の著作には他にも
『素霊微蘊』
『傷寒懸解』
金匱懸解
長沙薬解
四聖懸枢
『傷寒説意』
玉楸薬解
素問懸解
霊枢懸解
難経懸解
『道徳懸解』
『周易懸象』
などがあり、
黄元御が黄帝内経や難経・傷寒論といった古典にも精通していたであろうことが伺えます。

私が常々深く興味を抱いていた黄元御に関する論文を、私が翻訳した本の著者が寄稿していたということで、
この論文を見つけたときはちょっと興奮してしまいました。

内容はというと、『四聖心源』でも述べられている黄元御の思想核心ともいえる人体における気のめぐりかたに関するものでした。
気が昇り降りすることで生命活動を維持しているという基本的な考え方は、五行理論や臓腑理論と比べて非常に素朴なものですが、それゆえに理解しやすく、かつ臨床にも広く応用できる内容だと私は思っており、それを肯定してくれたような論文内容だったので、これまた興奮×興奮でした。

山のようにある蔵書の中からたまたま手に取った本の、たまたま開いたページにこのようなものを見つけ、
「縁」というものを感じずにはいられませんでした。

『経脈病候の針灸治療』翻訳後記 2

翻訳書『経脈病候の針灸治療』後記 2
keimyaku-byoukou翻訳書『経脈病候の針灸治療』後記
2020年に東洋学術出版社から出版された『経脈病候の針灸治療』の翻訳を務めさせていただいた。
出版後、改めて本書を読み返すと、気になる部分や残しておきたい考察内容などがあることに気が付いた。
そういった内容を記録の意味も込めて時々記載していきたい。

意不存人

本書では「肺魄不安の実証」の症状として「意 人に存せず」という症状を挙げている。『霊枢』本神「肺 喜楽して極まりなければ則ち魄を傷(やぶ)り、魄傷(やぶ)るれば則ち狂す。狂者は意 人に存せず、皮革焦(こ)げ、毛悴(やつ)れ色夭(あ)しく、夏に死す。」からの引用であるが、初見では全く意味がわからなかった。

 『内経』からの引用文を現代語訳をするうえで頼りにしていたのが『現代語訳 黄帝内経霊枢』(南京中医薬大学編著 東洋学術出版社)と『黄帝内経霊枢校注語釈』(郭靄春著 天津科学技術出版社)であった。

前者は「意不存人」に当たる部分を「言語にすじみちがなく」と現代語訳しており、後者は「狂者意不存」に対し「狂者は善く忘れ、苦(はなは)だ怒り、善く恐れ、善く笑い、善く罵詈する。その意識活動はすでに正常ではなく、周囲の事物に対し、仔細な観察を行うことができない。故に「狂者意不存』とある。『爾雅(じが)』釈詁には「存、察なり」とある。」という注釈を入れたうえで「意識活動が観察能力を失う」と現代語訳している。『内経』の注釈に関してはよくあることだが、両者は大分異なる解釈のようであった。

次に歴代の注釈本を当たってみると、
『霊枢集注』「狂者意不存、意者心之発、蓋喜楽無極、則神亦憚散而不存矣。」
『霊枢注証発微』「狂者意不存、脾本蔵意、而母気亦衰、故意不存也。」
『類経』三巻・本神「意不存人者、傍若無人也。」
『太素』巻第六「以楽蕩神、故狂病意不当人」
といった注釈が見られた。

『黄帝内経霊枢校注語釈』の解釈及び本書原文の解釈から「周囲への意識の低下」といったイメージが生まれていたところに上述の『類経』「傍若無人」を見つけ、これに飛びついた感がある。ただし飛びついたのは「傍らに人の無きが若(ごと)し」という読んでそのままの意味であった。「ぼうじゃくぶじん」という読み仮名に気づいたのはしばらくしてからである。
「周囲への意識の低下」というのは自分の中では「ボーっとしている」というイメージであったのだが、「ぼうじゃくぶじん」で180度違う意味を考慮することを迫られたのである。確かに、主語が「狂者」である以上「ボーっとしている」のは当てはまらず、むしろ傍若無人に自分の好き勝手にふるまう方が「狂者」の症状としては妥当であろう。
ちなみに「意」に関して『霊枢』本神には
「心に憶する所あるこれを意と謂う」と述べている。
これに対して『現代語訳 黄帝内経霊枢』は「心の中に記されるがまだ定まらないもの、これを意という」と現代語訳しており、『黄帝内経霊枢校注語釈』は「心が外来事物を支配する時に留める記憶の印象を意と言う。楊上善曰く「任者之心、有所遺憶、謂之意也。」」と注釈を入れ、「心が記憶し留める印象を意という」と現代語訳している。

また、『霊枢』本神の「意」の記述の前後には以下のような文がある。これに対する『現代語訳 黄帝内経霊枢』・『黄帝内経霊枢校注語釈』の注釈を併記した。
「所以任物者謂之心」、「意之所存謂之志」 
『霊枢』本神

「母体から離れたのち生命活動を主宰するもの、これを心という」
「意が思慮したものを決定実行する、これを志という」
『現代語訳 黄帝内経霊枢』

「外来事物を支配できるものを心という。『広雅』釈詁には「任、使也」とあり、ここから派生して〔任には〕支配の意味がある。成瓘曰く「心者能出神明、故能任物」」
「意念が蓄積して形成した認識を志という。楊上善曰く「所憶之意、有所変存、謂之志也」」
『黄帝内経霊枢校注語釈』

外界からの情報を最初に認識するのが「心」であり、それがフラッシュメモリのような形式でとりあえず保存されたものが「意」であろうかなどというイメージが大分後に湧いたのだが、果たして的を得ているのかどうか。実際には「狂者」の症状を直に目にするか、「狂者」になってみるかしないと分からないのかもしれない。

「意不存人」は「狂者」の症状として『霊枢』で紹介されているが、もしかしたらそれに近いのではと思うようなことが先日あった。道を歩いていて人にぶつかりそうになったのである。目では認識していたのだが、恐らく考え事をしていたのであろう気が付いた時にはぶつかる寸前であった。相手はスマホに夢中でまったく気づいていなかったようであったが、私自身はぶつかりそうになる寸前まで相手を目で認識していた自覚が確かにあるのである。相手が見えているのにぶつかりそうになるとは、自分の事ながら甚だ心配であるが、まさにこの時「意不存人」という症状を思い出した。「狂者」である自覚はないのだが、しばらくは「傍若無人」にならないように特に気を付けたいと思う次第である。

『霊枢』書き下し文参考 『現代語訳 黄帝内経霊枢』(南京中医薬大学編著 東洋学術出版社)
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