『経脈病候の針灸治療』翻訳後記 2
翻訳書『経脈病候の針灸治療』後記 2
意不存人
本書では「肺魄不安の実証」の症状として「意 人に存せず」という症状を挙げている。『霊枢』本神「肺 喜楽して極まりなければ則ち魄を傷(やぶ)り、魄傷(やぶ)るれば則ち狂す。狂者は意 人に存せず、皮革焦(こ)げ、毛悴(やつ)れ色夭(あ)しく、夏に死す。」からの引用であるが、初見では全く意味がわからなかった。
『内経』からの引用文を現代語訳をするうえで頼りにしていたのが『現代語訳 黄帝内経霊枢』(南京中医薬大学編著 東洋学術出版社)と『黄帝内経霊枢校注語釈』(郭靄春著 天津科学技術出版社)であった。
前者は「意不存人」に当たる部分を「言語にすじみちがなく」と現代語訳しており、後者は「狂者意不存」に対し「狂者は善く忘れ、苦(はなは)だ怒り、善く恐れ、善く笑い、善く罵詈する。その意識活動はすでに正常ではなく、周囲の事物に対し、仔細な観察を行うことができない。故に「狂者意不存』とある。『爾雅(じが)』釈詁には「存、察なり」とある。」という注釈を入れたうえで「意識活動が観察能力を失う」と現代語訳している。『内経』の注釈に関してはよくあることだが、両者は大分異なる解釈のようであった。
次に歴代の注釈本を当たってみると、
『霊枢集注』「狂者意不存、意者心之発、蓋喜楽無極、則神亦憚散而不存矣。」
『霊枢注証発微』「狂者意不存、脾本蔵意、而母気亦衰、故意不存也。」
『類経』三巻・本神「意不存人者、傍若無人也。」
『太素』巻第六「以楽蕩神、故狂病意不当人」
といった注釈が見られた。
『黄帝内経霊枢校注語釈』の解釈及び本書原文の解釈から「周囲への意識の低下」といったイメージが生まれていたところに上述の『類経』「傍若無人」を見つけ、これに飛びついた感がある。ただし飛びついたのは「傍らに人の無きが若(ごと)し」という読んでそのままの意味であった。「ぼうじゃくぶじん」という読み仮名に気づいたのはしばらくしてからである。
「周囲への意識の低下」というのは自分の中では「ボーっとしている」というイメージであったのだが、「ぼうじゃくぶじん」で180度違う意味を考慮することを迫られたのである。確かに、主語が「狂者」である以上「ボーっとしている」のは当てはまらず、むしろ傍若無人に自分の好き勝手にふるまう方が「狂者」の症状としては妥当であろう。
ちなみに「意」に関して『霊枢』本神には
「心に憶する所あるこれを意と謂う」と述べている。
これに対して『現代語訳 黄帝内経霊枢』は「心の中に記されるがまだ定まらないもの、これを意という」と現代語訳しており、『黄帝内経霊枢校注語釈』は「心が外来事物を支配する時に留める記憶の印象を意と言う。楊上善曰く「任者之心、有所遺憶、謂之意也。」」と注釈を入れ、「心が記憶し留める印象を意という」と現代語訳している。
また、『霊枢』本神の「意」の記述の前後には以下のような文がある。これに対する『現代語訳 黄帝内経霊枢』・『黄帝内経霊枢校注語釈』の注釈を併記した。
「所以任物者謂之心」、「意之所存謂之志」
『霊枢』本神
「母体から離れたのち生命活動を主宰するもの、これを心という」
「意が思慮したものを決定実行する、これを志という」
『現代語訳 黄帝内経霊枢』
「外来事物を支配できるものを心という。『広雅』釈詁には「任、使也」とあり、ここから派生して〔任には〕支配の意味がある。成瓘曰く「心者能出神明、故能任物」」
「意念が蓄積して形成した認識を志という。楊上善曰く「所憶之意、有所変存、謂之志也」」
『黄帝内経霊枢校注語釈』
外界からの情報を最初に認識するのが「心」であり、それがフラッシュメモリのような形式でとりあえず保存されたものが「意」であろうかなどというイメージが大分後に湧いたのだが、果たして的を得ているのかどうか。実際には「狂者」の症状を直に目にするか、「狂者」になってみるかしないと分からないのかもしれない。
「意不存人」は「狂者」の症状として『霊枢』で紹介されているが、もしかしたらそれに近いのではと思うようなことが先日あった。道を歩いていて人にぶつかりそうになったのである。目では認識していたのだが、恐らく考え事をしていたのであろう気が付いた時にはぶつかる寸前であった。相手はスマホに夢中でまったく気づいていなかったようであったが、私自身はぶつかりそうになる寸前まで相手を目で認識していた自覚が確かにあるのである。相手が見えているのにぶつかりそうになるとは、自分の事ながら甚だ心配であるが、まさにこの時「意不存人」という症状を思い出した。「狂者」である自覚はないのだが、しばらくは「傍若無人」にならないように特に気を付けたいと思う次第である。
『霊枢』書き下し文参考 『現代語訳 黄帝内経霊枢』(南京中医薬大学編著 東洋学術出版社)
![]() | 翻訳書『経脈病候の針灸治療』後記 2020年に東洋学術出版社から出版された『経脈病候の針灸治療』の翻訳を務めさせていただいた。 出版後、改めて本書を読み返すと、気になる部分や残しておきたい考察内容などがあることに気が付いた。 そういった内容を記録の意味も込めて時々記載していきたい。 |
意不存人
本書では「肺魄不安の実証」の症状として「意 人に存せず」という症状を挙げている。『霊枢』本神「肺 喜楽して極まりなければ則ち魄を傷(やぶ)り、魄傷(やぶ)るれば則ち狂す。狂者は意 人に存せず、皮革焦(こ)げ、毛悴(やつ)れ色夭(あ)しく、夏に死す。」からの引用であるが、初見では全く意味がわからなかった。
『内経』からの引用文を現代語訳をするうえで頼りにしていたのが『現代語訳 黄帝内経霊枢』(南京中医薬大学編著 東洋学術出版社)と『黄帝内経霊枢校注語釈』(郭靄春著 天津科学技術出版社)であった。
前者は「意不存人」に当たる部分を「言語にすじみちがなく」と現代語訳しており、後者は「狂者意不存」に対し「狂者は善く忘れ、苦(はなは)だ怒り、善く恐れ、善く笑い、善く罵詈する。その意識活動はすでに正常ではなく、周囲の事物に対し、仔細な観察を行うことができない。故に「狂者意不存』とある。『爾雅(じが)』釈詁には「存、察なり」とある。」という注釈を入れたうえで「意識活動が観察能力を失う」と現代語訳している。『内経』の注釈に関してはよくあることだが、両者は大分異なる解釈のようであった。
次に歴代の注釈本を当たってみると、
『霊枢集注』「狂者意不存、意者心之発、蓋喜楽無極、則神亦憚散而不存矣。」
『霊枢注証発微』「狂者意不存、脾本蔵意、而母気亦衰、故意不存也。」
『類経』三巻・本神「意不存人者、傍若無人也。」
『太素』巻第六「以楽蕩神、故狂病意不当人」
といった注釈が見られた。
『黄帝内経霊枢校注語釈』の解釈及び本書原文の解釈から「周囲への意識の低下」といったイメージが生まれていたところに上述の『類経』「傍若無人」を見つけ、これに飛びついた感がある。ただし飛びついたのは「傍らに人の無きが若(ごと)し」という読んでそのままの意味であった。「ぼうじゃくぶじん」という読み仮名に気づいたのはしばらくしてからである。
「周囲への意識の低下」というのは自分の中では「ボーっとしている」というイメージであったのだが、「ぼうじゃくぶじん」で180度違う意味を考慮することを迫られたのである。確かに、主語が「狂者」である以上「ボーっとしている」のは当てはまらず、むしろ傍若無人に自分の好き勝手にふるまう方が「狂者」の症状としては妥当であろう。
ちなみに「意」に関して『霊枢』本神には
「心に憶する所あるこれを意と謂う」と述べている。
これに対して『現代語訳 黄帝内経霊枢』は「心の中に記されるがまだ定まらないもの、これを意という」と現代語訳しており、『黄帝内経霊枢校注語釈』は「心が外来事物を支配する時に留める記憶の印象を意と言う。楊上善曰く「任者之心、有所遺憶、謂之意也。」」と注釈を入れ、「心が記憶し留める印象を意という」と現代語訳している。
また、『霊枢』本神の「意」の記述の前後には以下のような文がある。これに対する『現代語訳 黄帝内経霊枢』・『黄帝内経霊枢校注語釈』の注釈を併記した。
「所以任物者謂之心」、「意之所存謂之志」
『霊枢』本神
「母体から離れたのち生命活動を主宰するもの、これを心という」
「意が思慮したものを決定実行する、これを志という」
『現代語訳 黄帝内経霊枢』
「外来事物を支配できるものを心という。『広雅』釈詁には「任、使也」とあり、ここから派生して〔任には〕支配の意味がある。成瓘曰く「心者能出神明、故能任物」」
「意念が蓄積して形成した認識を志という。楊上善曰く「所憶之意、有所変存、謂之志也」」
『黄帝内経霊枢校注語釈』
外界からの情報を最初に認識するのが「心」であり、それがフラッシュメモリのような形式でとりあえず保存されたものが「意」であろうかなどというイメージが大分後に湧いたのだが、果たして的を得ているのかどうか。実際には「狂者」の症状を直に目にするか、「狂者」になってみるかしないと分からないのかもしれない。
「意不存人」は「狂者」の症状として『霊枢』で紹介されているが、もしかしたらそれに近いのではと思うようなことが先日あった。道を歩いていて人にぶつかりそうになったのである。目では認識していたのだが、恐らく考え事をしていたのであろう気が付いた時にはぶつかる寸前であった。相手はスマホに夢中でまったく気づいていなかったようであったが、私自身はぶつかりそうになる寸前まで相手を目で認識していた自覚が確かにあるのである。相手が見えているのにぶつかりそうになるとは、自分の事ながら甚だ心配であるが、まさにこの時「意不存人」という症状を思い出した。「狂者」である自覚はないのだが、しばらくは「傍若無人」にならないように特に気を付けたいと思う次第である。
『霊枢』書き下し文参考 『現代語訳 黄帝内経霊枢』(南京中医薬大学編著 東洋学術出版社)
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