『経脈病候の針灸治療』翻訳後記 番外編
翻訳書『経脈病候の針灸治療』後記 番外編
先日、蔵書の整理をしていたら偶然手にした雑誌『中医刊授自学之友』1985年7‐8合刊

の偶然ひらいたページに、『経脈病候の針灸治療』の著者である張吉先生の1985年当時の論文が掲載されていました。
この論文が偶然にも目に留まったのは題名が『黄元御気化昇降学術思想初探』であったからです。
黄元御は清代の医家で、著作『四聖心源』は古典的な中医学を非常にわかりやすく、かつ実践的な角度から書かれており、とてもわかりやすく中医学の角度から人体を考察しているので、私も常々参考にしていた本です。
以前このブログで紹介した『円運動的古典中医学』もこの『四聖心源』をベースにしているようです。
黄元御の著作には他にも
『素霊微蘊』
『傷寒懸解』
『金匱懸解』
『長沙薬解』
『四聖懸枢』
『傷寒説意』
『玉楸薬解』
『素問懸解』
『霊枢懸解』
『難経懸解』
『道徳懸解』
『周易懸象』
などがあり、
黄元御が黄帝内経や難経・傷寒論といった古典にも精通していたであろうことが伺えます。
私が常々深く興味を抱いていた黄元御に関する論文を、私が翻訳した本の著者が寄稿していたということで、
この論文を見つけたときはちょっと興奮してしまいました。
内容はというと、『四聖心源』でも述べられている黄元御の思想核心ともいえる人体における気のめぐりかたに関するものでした。
気が昇り降りすることで生命活動を維持しているという基本的な考え方は、五行理論や臓腑理論と比べて非常に素朴なものですが、それゆえに理解しやすく、かつ臨床にも広く応用できる内容だと私は思っており、それを肯定してくれたような論文内容だったので、これまた興奮×興奮でした。
山のようにある蔵書の中からたまたま手に取った本の、たまたま開いたページにこのようなものを見つけ、
「縁」というものを感じずにはいられませんでした。
![]() | 翻訳書『経脈病候の針灸治療』後記 2020年に東洋学術出版社から出版された『経脈病候の針灸治療』の翻訳を務めさせていただいた。 出版後、改めて本書を読み返すと、気になる部分や残しておきたい考察内容などがあることに気が付いた。 そういった内容を記録の意味も込めて時々記載していきたい。 |
先日、蔵書の整理をしていたら偶然手にした雑誌『中医刊授自学之友』1985年7‐8合刊

の偶然ひらいたページに、『経脈病候の針灸治療』の著者である張吉先生の1985年当時の論文が掲載されていました。
この論文が偶然にも目に留まったのは題名が『黄元御気化昇降学術思想初探』であったからです。
黄元御は清代の医家で、著作『四聖心源』は古典的な中医学を非常にわかりやすく、かつ実践的な角度から書かれており、とてもわかりやすく中医学の角度から人体を考察しているので、私も常々参考にしていた本です。
以前このブログで紹介した『円運動的古典中医学』もこの『四聖心源』をベースにしているようです。
黄元御の著作には他にも
『素霊微蘊』
『傷寒懸解』
『金匱懸解』
『長沙薬解』
『四聖懸枢』
『傷寒説意』
『玉楸薬解』
『素問懸解』
『霊枢懸解』
『難経懸解』
『道徳懸解』
『周易懸象』
などがあり、
黄元御が黄帝内経や難経・傷寒論といった古典にも精通していたであろうことが伺えます。
私が常々深く興味を抱いていた黄元御に関する論文を、私が翻訳した本の著者が寄稿していたということで、
この論文を見つけたときはちょっと興奮してしまいました。
内容はというと、『四聖心源』でも述べられている黄元御の思想核心ともいえる人体における気のめぐりかたに関するものでした。
気が昇り降りすることで生命活動を維持しているという基本的な考え方は、五行理論や臓腑理論と比べて非常に素朴なものですが、それゆえに理解しやすく、かつ臨床にも広く応用できる内容だと私は思っており、それを肯定してくれたような論文内容だったので、これまた興奮×興奮でした。
山のようにある蔵書の中からたまたま手に取った本の、たまたま開いたページにこのようなものを見つけ、
「縁」というものを感じずにはいられませんでした。
『譚先生の古典鍼灸入門』出版
『経脈病候の針灸治療』翻訳後記 2
翻訳書『経脈病候の針灸治療』後記 2
意不存人
本書では「肺魄不安の実証」の症状として「意 人に存せず」という症状を挙げている。『霊枢』本神「肺 喜楽して極まりなければ則ち魄を傷(やぶ)り、魄傷(やぶ)るれば則ち狂す。狂者は意 人に存せず、皮革焦(こ)げ、毛悴(やつ)れ色夭(あ)しく、夏に死す。」からの引用であるが、初見では全く意味がわからなかった。
『内経』からの引用文を現代語訳をするうえで頼りにしていたのが『現代語訳 黄帝内経霊枢』(南京中医薬大学編著 東洋学術出版社)と『黄帝内経霊枢校注語釈』(郭靄春著 天津科学技術出版社)であった。
前者は「意不存人」に当たる部分を「言語にすじみちがなく」と現代語訳しており、後者は「狂者意不存」に対し「狂者は善く忘れ、苦(はなは)だ怒り、善く恐れ、善く笑い、善く罵詈する。その意識活動はすでに正常ではなく、周囲の事物に対し、仔細な観察を行うことができない。故に「狂者意不存』とある。『爾雅(じが)』釈詁には「存、察なり」とある。」という注釈を入れたうえで「意識活動が観察能力を失う」と現代語訳している。『内経』の注釈に関してはよくあることだが、両者は大分異なる解釈のようであった。
次に歴代の注釈本を当たってみると、
『霊枢集注』「狂者意不存、意者心之発、蓋喜楽無極、則神亦憚散而不存矣。」
『霊枢注証発微』「狂者意不存、脾本蔵意、而母気亦衰、故意不存也。」
『類経』三巻・本神「意不存人者、傍若無人也。」
『太素』巻第六「以楽蕩神、故狂病意不当人」
といった注釈が見られた。
『黄帝内経霊枢校注語釈』の解釈及び本書原文の解釈から「周囲への意識の低下」といったイメージが生まれていたところに上述の『類経』「傍若無人」を見つけ、これに飛びついた感がある。ただし飛びついたのは「傍らに人の無きが若(ごと)し」という読んでそのままの意味であった。「ぼうじゃくぶじん」という読み仮名に気づいたのはしばらくしてからである。
「周囲への意識の低下」というのは自分の中では「ボーっとしている」というイメージであったのだが、「ぼうじゃくぶじん」で180度違う意味を考慮することを迫られたのである。確かに、主語が「狂者」である以上「ボーっとしている」のは当てはまらず、むしろ傍若無人に自分の好き勝手にふるまう方が「狂者」の症状としては妥当であろう。
ちなみに「意」に関して『霊枢』本神には
「心に憶する所あるこれを意と謂う」と述べている。
これに対して『現代語訳 黄帝内経霊枢』は「心の中に記されるがまだ定まらないもの、これを意という」と現代語訳しており、『黄帝内経霊枢校注語釈』は「心が外来事物を支配する時に留める記憶の印象を意と言う。楊上善曰く「任者之心、有所遺憶、謂之意也。」」と注釈を入れ、「心が記憶し留める印象を意という」と現代語訳している。
また、『霊枢』本神の「意」の記述の前後には以下のような文がある。これに対する『現代語訳 黄帝内経霊枢』・『黄帝内経霊枢校注語釈』の注釈を併記した。
「所以任物者謂之心」、「意之所存謂之志」
『霊枢』本神
「母体から離れたのち生命活動を主宰するもの、これを心という」
「意が思慮したものを決定実行する、これを志という」
『現代語訳 黄帝内経霊枢』
「外来事物を支配できるものを心という。『広雅』釈詁には「任、使也」とあり、ここから派生して〔任には〕支配の意味がある。成瓘曰く「心者能出神明、故能任物」」
「意念が蓄積して形成した認識を志という。楊上善曰く「所憶之意、有所変存、謂之志也」」
『黄帝内経霊枢校注語釈』
外界からの情報を最初に認識するのが「心」であり、それがフラッシュメモリのような形式でとりあえず保存されたものが「意」であろうかなどというイメージが大分後に湧いたのだが、果たして的を得ているのかどうか。実際には「狂者」の症状を直に目にするか、「狂者」になってみるかしないと分からないのかもしれない。
「意不存人」は「狂者」の症状として『霊枢』で紹介されているが、もしかしたらそれに近いのではと思うようなことが先日あった。道を歩いていて人にぶつかりそうになったのである。目では認識していたのだが、恐らく考え事をしていたのであろう気が付いた時にはぶつかる寸前であった。相手はスマホに夢中でまったく気づいていなかったようであったが、私自身はぶつかりそうになる寸前まで相手を目で認識していた自覚が確かにあるのである。相手が見えているのにぶつかりそうになるとは、自分の事ながら甚だ心配であるが、まさにこの時「意不存人」という症状を思い出した。「狂者」である自覚はないのだが、しばらくは「傍若無人」にならないように特に気を付けたいと思う次第である。
『霊枢』書き下し文参考 『現代語訳 黄帝内経霊枢』(南京中医薬大学編著 東洋学術出版社)
![]() | 翻訳書『経脈病候の針灸治療』後記 2020年に東洋学術出版社から出版された『経脈病候の針灸治療』の翻訳を務めさせていただいた。 出版後、改めて本書を読み返すと、気になる部分や残しておきたい考察内容などがあることに気が付いた。 そういった内容を記録の意味も込めて時々記載していきたい。 |
意不存人
本書では「肺魄不安の実証」の症状として「意 人に存せず」という症状を挙げている。『霊枢』本神「肺 喜楽して極まりなければ則ち魄を傷(やぶ)り、魄傷(やぶ)るれば則ち狂す。狂者は意 人に存せず、皮革焦(こ)げ、毛悴(やつ)れ色夭(あ)しく、夏に死す。」からの引用であるが、初見では全く意味がわからなかった。
『内経』からの引用文を現代語訳をするうえで頼りにしていたのが『現代語訳 黄帝内経霊枢』(南京中医薬大学編著 東洋学術出版社)と『黄帝内経霊枢校注語釈』(郭靄春著 天津科学技術出版社)であった。
前者は「意不存人」に当たる部分を「言語にすじみちがなく」と現代語訳しており、後者は「狂者意不存」に対し「狂者は善く忘れ、苦(はなは)だ怒り、善く恐れ、善く笑い、善く罵詈する。その意識活動はすでに正常ではなく、周囲の事物に対し、仔細な観察を行うことができない。故に「狂者意不存』とある。『爾雅(じが)』釈詁には「存、察なり」とある。」という注釈を入れたうえで「意識活動が観察能力を失う」と現代語訳している。『内経』の注釈に関してはよくあることだが、両者は大分異なる解釈のようであった。
次に歴代の注釈本を当たってみると、
『霊枢集注』「狂者意不存、意者心之発、蓋喜楽無極、則神亦憚散而不存矣。」
『霊枢注証発微』「狂者意不存、脾本蔵意、而母気亦衰、故意不存也。」
『類経』三巻・本神「意不存人者、傍若無人也。」
『太素』巻第六「以楽蕩神、故狂病意不当人」
といった注釈が見られた。
『黄帝内経霊枢校注語釈』の解釈及び本書原文の解釈から「周囲への意識の低下」といったイメージが生まれていたところに上述の『類経』「傍若無人」を見つけ、これに飛びついた感がある。ただし飛びついたのは「傍らに人の無きが若(ごと)し」という読んでそのままの意味であった。「ぼうじゃくぶじん」という読み仮名に気づいたのはしばらくしてからである。
「周囲への意識の低下」というのは自分の中では「ボーっとしている」というイメージであったのだが、「ぼうじゃくぶじん」で180度違う意味を考慮することを迫られたのである。確かに、主語が「狂者」である以上「ボーっとしている」のは当てはまらず、むしろ傍若無人に自分の好き勝手にふるまう方が「狂者」の症状としては妥当であろう。
ちなみに「意」に関して『霊枢』本神には
「心に憶する所あるこれを意と謂う」と述べている。
これに対して『現代語訳 黄帝内経霊枢』は「心の中に記されるがまだ定まらないもの、これを意という」と現代語訳しており、『黄帝内経霊枢校注語釈』は「心が外来事物を支配する時に留める記憶の印象を意と言う。楊上善曰く「任者之心、有所遺憶、謂之意也。」」と注釈を入れ、「心が記憶し留める印象を意という」と現代語訳している。
また、『霊枢』本神の「意」の記述の前後には以下のような文がある。これに対する『現代語訳 黄帝内経霊枢』・『黄帝内経霊枢校注語釈』の注釈を併記した。
「所以任物者謂之心」、「意之所存謂之志」
『霊枢』本神
「母体から離れたのち生命活動を主宰するもの、これを心という」
「意が思慮したものを決定実行する、これを志という」
『現代語訳 黄帝内経霊枢』
「外来事物を支配できるものを心という。『広雅』釈詁には「任、使也」とあり、ここから派生して〔任には〕支配の意味がある。成瓘曰く「心者能出神明、故能任物」」
「意念が蓄積して形成した認識を志という。楊上善曰く「所憶之意、有所変存、謂之志也」」
『黄帝内経霊枢校注語釈』
外界からの情報を最初に認識するのが「心」であり、それがフラッシュメモリのような形式でとりあえず保存されたものが「意」であろうかなどというイメージが大分後に湧いたのだが、果たして的を得ているのかどうか。実際には「狂者」の症状を直に目にするか、「狂者」になってみるかしないと分からないのかもしれない。
「意不存人」は「狂者」の症状として『霊枢』で紹介されているが、もしかしたらそれに近いのではと思うようなことが先日あった。道を歩いていて人にぶつかりそうになったのである。目では認識していたのだが、恐らく考え事をしていたのであろう気が付いた時にはぶつかる寸前であった。相手はスマホに夢中でまったく気づいていなかったようであったが、私自身はぶつかりそうになる寸前まで相手を目で認識していた自覚が確かにあるのである。相手が見えているのにぶつかりそうになるとは、自分の事ながら甚だ心配であるが、まさにこの時「意不存人」という症状を思い出した。「狂者」である自覚はないのだが、しばらくは「傍若無人」にならないように特に気を付けたいと思う次第である。
『霊枢』書き下し文参考 『現代語訳 黄帝内経霊枢』(南京中医薬大学編著 東洋学術出版社)
『経脈病候の針灸治療』翻訳後記 1
翻訳書『経脈病候の針灸治療』後記
![]() | 翻訳書『経脈病候の針灸治療』後記 2020年に東洋学術出版社から出版された『経脈病候の針灸治療』の翻訳を務めさせていただいた。 出版後、改めて本書を読み返すと、気になる部分や残しておきたい考察内容などがあることに気が付いた。 そういった内容を記録の意味も込めて時々記載していきたい。 |
是動病
本書では『霊枢』経脈篇からの引用である「是動則病」すべてに「〔変動すれば〕」の文中注釈を入れている。これは主に本文中において「経気が(或いは経が)変動すると」起こる病証の例として、所謂「是動病」を挙げているためであるが、実はそれ以外にも理由がある。
『難経』二十二難「経の言う是動なる者は、気なり。所生病なる者は、血なり。邪 気に在り、気は是動を為す。邪 血にあり、血は所生病を為す」から始まり、是動病・所生病には少なくない解釈がある。これらの多くは未だ浅学の徒である私にとっては、どれもわかりずらく腑に落ちないものであった。その最大の理由が「是動」・「所生」という文字とそれらの解釈との間に直接的な関連性が見えないということにあった。簡単に言えば気の病であればなぜ「気病」としないのかということである。
ちなみに、日本の針灸学校で使用した『東洋医学概論』には以下のような解釈の紹介がある。
出典 | 是動病 | 所生病 |
難経 二十二難 | まず気が病むこと | 後に血が病むこと |
難経 楊玄操注 | 邪が外にある病 | 邪が内にある病 |
難経 徐霊胎注 | 本経の病 | 他経の病 |
十四経発揮和語鈔 | 経絡の病 | 臓腑の病 |
霊枢集注 | 外因による病 | 内因による病 |
初めて腑に落ちる解釈に出会ったのが『縁術入道―開啓古典針灸之門』(譚源生著 人民衛生出版社)である。
是―これ・この。
動―変動、変化。
病―問題の出現
という説明は、物覚えの悪い私でも一度見ただけでしっかり記憶に根付いた。
この説明をベースに改めて歴代の是動病・所生病の解釈を再度見直してみると、これまで全く頭に入ってこなかった内容がすんなりと入ってきた。例えば上述の『東洋医学概論』に紹介される内容であるが、まず、経脈および経脈を流れる経気になんらかの変動が起こり「気が病む」。後にそれが血へと波及し「血が病む」するという考えは容易に理解できる。また、経脈は基本的に人体の体表を運行しており、外界の影響を受けやすい。故に経脈に起こる最初の変動は「邪が外に在る病」であり、その後、内に波及して「邪が内にある病」を生じるという説明もすんなりつく。他の内容に対しても推して知るべしである。
『内経』では「動」という文字はいくつかの意味で用いられており、是動病に関する記載以外の部分でも「変動」と解釈できる内容はいくつか見られる。例えば、『素問』刺禁論に「刺して心に中(あた)れば、一日にして死す。其の動は噫たり。」とあり、これに対する注釈として『素問集注』に「動者、傷其臓真而変動也」とあり、『素問呉注』には「動、変動也」とある。また刺禁論とほぼ同じ内容であるが『素問』四時刺逆従論に「五蔵刺して、心に中(あた)れば一日にして死し、其の動は噫たり」とあり、これに対する注釈として『素問直解』に「其動者、則依其臓之所変病」とあり、『素問注証発微』には「此言誤刺五臓之死期、其変動之候」とある。『素問』五常政大論では「委和之紀~其の動は緛戾拘緩~。伏明之紀~其の動は彰伏変易~。卑監之紀~其の動は瘍涌分潰癰腫~。従革之紀~其の動は~」とあり、何れの「動」も一般に「人体における変動」と解釈される。
『内経』では「動」と「変化」の段階的な関連性も示されており、『素問』刺要論には「浅深得ざれば、反って大賊となり、内は五蔵を動じ、後に大病を為す」とあり、『素問』六微旨大論では「成敗は倚伏して、動より生じ、動きて已まざれば、則ち変化作(お)こる」とある。また前述の四時刺逆従論の内容に対する注釈として『素問集注』には「蓋刺五臓則動其臓気、動臓気則変候見於外矣」とある。
以上のような解釈を考慮するに、「動」とはつまり「動かす・動かされる」であり、なんらかの要因によって経気や臓気が動かされると、それによって変化が生じ、その変化の現れが刺禁論・四時刺逆従論・五常政大論に述べられているような「動」の病であり、『霊枢』経脈篇論にある「是動病」であるといえるのではないだろうか。
ちなみに現存する書物の中で「是動病」「所生病」に関する記載がある最も古い書物は『陰陽十一脈灸経』である。針灸に関する最も古い書物の記載が「ツボ」に関するものではなく「経脈」に関するものであるということは非常に興味深いと常々思う次第である。
『素問』書き下し文参考 『現代語訳 黄帝内経素問』(南京中医学院編著 東洋学術出版社)
『難経』書き下し文参考 『難経解説』(南京中医学院編著 東洋学術出版社)